無痛文明論

無痛文明論

無痛文明論

今の文明は楽をさせようとするばかりで、それに同調している「身体の欲望」は、本当の意味での生命のよろこびではないのである。だまされるな!(おおいに意訳)という内容。

不幸論のときも思ったけど、いない敵を作らないと論を進められないのか。ぶっちゃけ思考は肉体あってのものなので、そこを無視するのはしっくりこない。いやいいたいことは解るんだけど。

哲学書、というのを差し引いても、読み物として辛いんだよな。これで終わりなき戦いを自分は生きてる、といくら言ってもそれはただのナルシストだ。それならではというか、著者の妄想っぽい部分はちょっとおもしろい。けどこれは読み方として邪道なんだろうなあ。

詳しくないこっちとしては現代哲学ってみんなこんな感じなの?と違和感というか不信感が。俺が単に向いてないだけかもしれんけど。

つづき。最後まで読んだけど結局無痛文明を否定した先にあるものが良いものである、というのが実感出来なかった。筆者が無痛文明と戦うことを必死に説いているものの、やはりある程度明確な目的がなければ人は動かないものだ。

もちろん筆者が言いたいことが「より良く生きる」こと、「愛」について、という哲学の普遍的な問いに対する答えというのはわかるのだが、それにしても説得力は乏しいように感じる。

そもそも人間は矛盾があるものだし、それを否定しようとしても否定しきれない。そこを如何に突破するか?というのが哲学なのだろうけど、そこまで至らないまま、これ以上語ると自分自身も無痛文明に囚われてしまう、と結論してしまうのはちょっと無責任な気がする。筆者の語り口のせいもあると思うけど。

結局自分が筆者の考えにたいしてまるで感銘を憶えないのは、無痛文明に囚われているというわけではなく、自分の中になんらかの哲学があるせいなのかもしれない。悩みのない人間に宗教は必要がないのと同じように。

哲学病の根源がナルシズムであるなら、自分はそこまで我が強くないというだけのことなのかもしれないが。悔いなく生きる、ということと、死ぬのが怖い、というのは関連しているのだろうか?